鵜ヶ池(うがいけ)城

鵜ヶ池城近辺を撮影。宅地の部分は周囲の畑地より一段高くなっている。

 

2016年7月11日撮影


◆別名:

鵜ヶ池邸

 

◆所在:

西尾市鵜ヶ池町上屋敷

 

◆交通:

 

◆歴史:

東条城主吉良持広の家老である富永忠安は、松平宗家の当主である広忠が桜井城主松平信定との争いに敗れて岡崎城を追われた際、広忠に味方をして自分が城主を務める室城に迎え入れたが、信定軍の攻撃を受けて敗北。室城は炎上し、広忠は今橋城へと落ち延びて行った。

 

忠安の息子である忠元は伴五郎と称し、父の跡を継いで吉良家の家老となっていたが、今川家に従属していた松平家康(後の徳川家康)が桶狭間の戦い以降、今川家から独立して三河統一を目指していく中での抗争で度々功名を立て、松平勢からも恐れられていたが、藤波畷の戦いで討ち死にを遂げると、主家の吉良家も望みを失い家康に降伏する事となった。

 

息子を失った忠安は本領の野田に住んでいたが、家康は吉良家への忠誠心などを汲み取り、鵜ヶ池の地一帯を与え隠居所とした。鵜ヶ池城はこの時に築かれた城館である。

 

同地に建てられた妙満寺は永禄8年(1565年)に富永忠安による創立。

寛永2年(1625年)当時の西尾城主であった本田俊次の乳母が、同寺を深く信仰していたため、参詣の便を図って天王門近くに移したが、万治2年(1659年)に西尾城主となった増山正利は境内が手狭な事を理由に現在の大給町へと移し、同寺を菩提寺としている。

 

◆現在:

信号交差点の南側に三角形の田地があるが、そこが城跡と伝わる。

一帯は周囲の畑地より一段高くなっており、城館を築く時に盛り土をした名残と思われるが、定かではない。