荒川(あらかわ)城

宅地の中に残る土塁跡

 

2016年2月1日撮影


◆別名:

八ッ面古城

 

◆所在:

西尾市八ッ面町土井

 

◆交通:

名古屋方面より国道23号線バイパスを走り、中原インターを降りた後、側道を通って中原インター南の交差点まで進み、県道479号線を西尾方面へ右折する。

500m程進んだ八ッ面町の信号交差点の北西にある集落から八ッ面小学校までにかけての一帯が城跡。

 

◆歴史:

桶狭間の戦い以降、今川氏から独立した松平元康は、清洲城で織田信長と同盟を結ぶ。

背後の脅威を取り除くと、三河統一を目指して、東三河にある月ヶ谷城主西郷正勝や野田城の菅沼定盈などの豪族を調略で味方に付けると同時に、軍事面でも今川氏に従う中島城の板倉重定に対して、深溝城の松平好景を派遣してこれを攻略。

板倉重定は岡城へと逃げ延びるが、されに追撃をかけて豊川市の八幡城へと追い払った。

 

元康の勢力拡大に対し、東条城を本拠とする吉良家などは反発。

酒井忠尚の上野城を攻めると見せかけ、これに対して松平好景が援軍を送った隙を狙って中島城へと攻め寄せたため、好景は討ち死にを遂げる。

 

一進一退の攻防の中、元康は東条城の吉良義昭の弟である荒川義広を抱き込んで、荒川城を支配下に収めて西尾城へ圧力をかけていく事に成功する。

その後、吉良氏は勢力を失っていき、西三河は元康の支配下となっていく。

 

荒川義広は、後に元康の異母妹である市場殿を娶らせ、これによって西三河の地盤を強固なものにしていったが、後には各地の大名などに一族の姫を正室として送り込むなどの婚姻政策が、徳川幕府の基盤を作る事になっていった。

 

◆現在:

八ッ面小学校から北側の住宅地一帯が城跡と伝わる。

複数の城館が集まった城であったと言われており、集落内の各地に土塁や盛り土、水路の跡などを見る事ができる。