下永良(しもながら)陣屋

2016年2月1日撮影


◆別名:

諏訪氏陣屋

 

◆所在:

西尾市下永良町鎮守

 

◆交通:

23号線バイパスの西尾東インターを降り、北へ向かう。

次の江原町東の信号交差点を右折し、800m程進んで広田川にかかる橋を渡り、駒場町の信号交差点を左折する。

700m程進んだ所にある駒場町北の信号交差点を左折して、再び広田川を渡り、1本目の路地を南に入ると常夜灯がある。常夜灯から西に入った所が陣屋跡となる。

 

◆歴史:

宝永2年(1705年)旗本の諏訪若狭守頼秋が飛び地として幡豆、宝飯など22ヶ村5000石を賜り、この地に陣屋を構えた事が始まりで、この陣屋は明治まで存続した。

当時の高島藩主の兄弟などには頼秋の名前は見当たらないが、諏訪高島藩初代の諏訪頼水の次男に諏訪若狭守頼郷がおり、徳川綱重の家老にまで出世している事から、この家系に連なる人物ではないかと思われる。

5000石を賜った経緯も不明であるが、1703年末に忠臣蔵として名高い赤穂浪士の討ち入りがあり、当時の吉良家当主である吉良義周(上野介義央の後継ぎ)が諏訪高島藩にお預けになっていた。

この労に対して、内藤信良(先祖は家康の異母弟である内藤信成)の養女を妻としていた分家の頼秋に領地が下賜されたのかもしれない。

 

◆現在:

陣屋跡は民家となっているが、石垣は残されている。

民家の北東50m程の角には深溝城主で深溝松平家二代目の松平好景戦死地の碑が立てられている。また、陣屋の西側には碑が有り、好景が善明寺の戦いで討ち死にするまでの経緯が書かれている。


陣屋の西側

左側に石垣が有り、中央には松平好景の碑が立てられている。


陣屋の裏に立つ松平好景の碑

好景は深溝城を本拠としていたが、松平元康に従い三河統一へ向けて中島城を攻め落としたものの、東条城の吉良義昭は上野城を攻めると見せかけた軍勢を発進させる。

これに対して好景が中島城から援軍を出した隙を狙って、義昭は中島城への攻撃を開始した。

好景は本拠地の深溝城からも兵を繰り出すものの、兵力の差は大きく、この地で討ち死にを遂げる事になった。


陣屋の東にある常夜灯の脇には、松平好景戦死地の碑が立てられている。