寺津(てらづ)城

2016年7月11日撮影


◆別名:

 

◆所在:

西尾市寺津町御屋敷

 

◆交通:

 

◆歴史:

永正7年(1510年)に大河内信綱か築いた城。

大河内氏は源頼政の血を引く一族で、以仁王の乱で頼政が討たれると、岡崎市の大河内郷まで落ち延び、大河内城を築いて本拠とした。

 

承久3年(1221年)に足利義氏が三河守護になると、これに従い、後には吉良氏の家老となって巨海城長縄城などに一族を配して勢力を固めていった他、遠江にある吉良氏の領地に代官として派遣された血筋も残されている。

 

その後は、森山崩れで松平清康(徳川家康の祖父)が謀殺された際に、長縄城の大河内小見が遺体を持ち帰り埋葬するなど、松平氏と近い関係にあったが、大河内12代目の大河内秀綱は三河一向一揆では主君の吉良義昭が一揆側に付くと、これに追随して家康と敵対した。

 

一揆が敗れると家康に請われて出仕。秀剛の次男である正綱が家康の命により長沢松平家へ養子に入り、相模玉縄藩主となった後は大河内松平家として幕府の信頼を得、さらには甥の信綱が養子となって跡を継ぐと、徳川家光の小姓から始まり『知恵伊豆』と呼ばれ、最後には老中まで出世し、その子孫の数家は幕末まで大名として存続している。

 

◆現在:

瑞松寺一帯が城跡と言われている。

寺の北西角にある高い部分はかつての土塁跡。また、寺の北側の路地は堀跡と言われている。

また、城跡から200m程北側に建つ寺津八幡社は大河内顕綱の創建である。


寺の北側の路地はかつての堀跡と言われている


城址碑の奥には社がある。

本堂より高い位置にあり、土塁の名残と伝わる。


城址碑より200m程北側に建つ寺津八幡社の由緒にも寺津城が記載されている。


寺津八幡社