2015年2月16日撮影
◆別名:
牟呂城
◆所在:
西尾市室町上屋敷
◆交通:
◆歴史:
永正時代に東条城への街道を守る城として、富永伴五郎によって築かれた城。
築城当時、東三河は野田城や長篠城、今橋城などが築かれ、戸田氏や牧野氏、菅沼氏などの豪族が割拠して争う激戦地だった。
室城は東条城の北約3kmの箇所に築かれ、東から山の稜線が張り出して矢作古川との間が狭くなっている事から、岡崎から矢作古川沿いを降る街道(現在の県道42号線)を守る事では最適な土地と言える。
天文9年(1540年)には松平広忠(徳川家康の父)が、一族の長である桜井城の松平信定に岡崎城を追放され、東条城の吉良氏や駿河の今川氏の援助で岡崎城を取り戻す際に、その足がかりとして、この室城に入城した。
その後、桶狭間の戦い後独立した徳川家康が東条城の吉良義昭を攻める際に津平砦や小牧砦、糟塚砦などを築いて東条城を包囲したが、東条城を落とす事ができなかった。
しかし、吉良氏家老であった室城の富永忠元を藤波畷の戦いで討ち取ったため吉良氏は降伏し、その際に室城は廃城となったとされている。
なお、富永忠元を討ち取った本多広孝は三河一向一揆でも家康に従い、その後も田原城を攻め取るなどの功績をあげ、関ヶ原の戦い後、広孝の嫡子康重は家康の出生地である岡崎城を与えられ、初代岡崎藩主となった事などから、家康の本多父子への信頼度が高かった事が伺える。
◆現在:
松林寺の北側の山が主郭とされ、東側の神明社は蔵屋敷があったとされている。
主郭は墓地となっているが、そこまでの通路の両側は堀があり、土塁も各所に残されている。
北側にあったと思われる曲輪跡は竹藪となっているが、その先は川があり天然の要害となっていたと思われる。
看板脇の階段を登ると本郭に出る。
本郭は現在墓地となっている。
城の西側にある神明社の看板