沓掛(くつかけ)城

2015年2月2日撮影


◆別名:

沓懸城

 

◆所在:

豊明市沓掛町東本郷

 

◆交通:

 

◆歴史:

日進・長久手から豊明・大府を抜けて衣浦湾に流れる境川と並行して通る街道と、鎌倉街道が交差する交通の要地に築かれた城。

 

南北朝時代に沓掛の住人である近藤宗光が後醍醐天皇に召し出されたと言う記述がある。

沓掛の地は近藤氏が支配しており、子孫の近藤景春は当初松平広忠の傘下に入っていたが、広忠が死去し、松平氏の勢力が衰えると織田氏に従うようになった。

 

1559年に松平氏を傘下に収めた今川義元が尾張への侵攻を決意。鳴海城主の山口教継が今川方に寝返り、さらに山口教継の調略を受けた沓掛城は大高城と共に今川方へと寝返った。

1560年、本格的に尾張への侵攻を開始した今川義元は知立城を出て、沓掛城へと入城し軍議を開き、翌日には沓掛城を出て桶狭間へと移動するが、信長に討たれる事になる。

近藤景春は織田勢に備えるため沓掛城を家臣に預け、薬師ヶ根城に移ったが、義元が討たれて今川勢が撤退すると沓掛城に戻り、織田勢と戦って討ち死にした。

 

その後、沓掛城は桶狭間の合戦で戦功を立てた簗田政綱に与えれれ、その後は織田信照(信長の弟)、川口宗勝が城主となった。

川口宗勝は関ヶ原の合戦で西軍に付き、伊達政宗にお預けとなったため、沓掛城は廃城となった。

 

◆現在:

近代の城とは異なり、小さい縄張りながらも、本丸や二の丸、堀、出丸など様々な遺構が整備保存された沓掛城址公園となっている。


二の丸の西側から本丸方面を撮影。

写真右が二の丸、写真中央に見える土橋に大手門が置かれていた。

手前の窪んだ所は堀跡で、左手奥の一段高い所が諏訪曲輪となる


上の写真とは反対に大手口から二の丸側の堀などを撮影。
幅は当時のままだが、深さに関してはもっと深く掘られていたと思われる。


諏訪曲輪の上から、本郭を撮影。

写真でも諏訪曲輪が高い位置にある事が判る。