羽(はね)城

2015年6月15日撮影


◆別名:

大浜陣屋 : 大浜城

 

◆所在:

碧南市羽根町1-12

 

◆交通:

名鉄碧南駅の西口を出て、碧南駅西の交差点を北上。300m先の羽根町の信号交差点の西50mに大浜陣屋広場の入り口がある。

 

◆歴史:

1575年長篠の合戦で武田氏に対して優位な地位を築いた徳川家康は、水軍の基地の一つとして、翌年の1576年に羽城を築き、長田重元に守らせた。

 

長田氏は元は知多半島の野間を支配していた豪族で、源義朝(頼朝・義経の父親)が平清盛との戦いに敗れ逃亡中に野間に立ち寄り、長田忠致に討ち取られた。忠致は頼朝に許されて挙兵に参加したが、最後は親を殺された頼朝に斬首された(戦いで討ち死にしたと言う説も有)ため、子孫は美濃などに分散していったとされ、重元もこの子孫を称していた。

 

先祖が野間を治めていたと言う事は、船舶に関する知識は当然ながら、船に携わる人々との関わりも持ち続けていたと思われ、家康は長田重元を水軍の奉行のような役目に付け、羽城を水軍の基地にしようとしたのだと想像できる。その後、家康は浜松城に居城を移した際、岡崎城は嫡男の信康が支配する事になるが、信康が武田氏内通を疑われて岡崎城を出て謹慎した地がこの羽城である。

 

その後、長田重元の次男である永井直勝が東端城主となり羽城も治めていたが、笠間藩を設立する際に東端城とともに廃城となったと思われる。

 

大浜陣屋は1768年に佐久郡で9000石を領していた水野忠友が若年寄となり大浜の5000石を加増され大名となった時に築かれた陣屋であるが、忠友はその後沼津藩に移封になったため、数年で廃藩となり、陣屋も使われなくなったと言われている。

 

なお、名古屋市熱田区にも同名の羽城(こちらは『はじょう』と読む)があり、こちらは家康が織田方の人質になった際、最初に幽閉された城であった。昔、自分が織田方の人質であった時と同名の城に息子を幽閉した事で、信長に昔を思い出させ、暗に助命を願い出たというのは考えすぎだろうか…

 

◆現在:

大浜陣屋広場として、公園となっている。

公園周囲は土塀で囲まれており、塀の内側には大浜陣屋を治めた水野氏の歴史や陣屋の配置図などが掲示されている。

また、400m程南に行った所にある常行院(碧南市本郷3)には羽城の裏門が移築され現存している。


常行院に移築されたと伝わる羽城の裏門